アメリカンジョークの一つに、Parable of the Drowning Man 「溺れる男の寓話」というものがある。この話は単純ながら、深い皮肉と教訓を含んでいる。
物語はこうだ。ある日、大雨による洪水で村が浸水し、一人の男が家の屋根に取り残された。しかし彼は信心深い男で、「神が必ず助けてくれる」と確信していた。そんな彼のもとに、まず通りかかった村人が小さなボートで声をかけた。
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「早く乗れ、これ以上ここにいたら危ない!」
しかし男は首を振り、「いや、大丈夫だ。神が私を助けてくださる」と断る。
次にやってきたのは救助隊のモーターボートだった。救助隊員たちは叫ぶ。
「ここはもう限界だ!今すぐボートに乗って脱出しろ!」
それでも男は、「神が私を助けてくれる。ありがとう、でも必要ない」と答える。
最後にヘリコプターが飛んできて、上空から救命ロープを下ろした。レスキュー隊員が声を張り上げる。
「これが最後のチャンスだ!ロープを掴め!」
だが男はまたしても拒み、「神が私を助けてくださるのだ」と言い続けた。
結局、洪水は男を飲み込み、彼は命を落としてしまった。そして天国で神と出会った男は、悲しげに神に尋ねる。
「私は信じていましたのに、なぜ助けてくださらなかったのですか?」
すると神は答える。
「いや、私は君を助けようとしたぞ。ボートを2つとヘリコプターを送っただろうに!」
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この寓話は、救いが目の前にあっても、それを受け入れなければ意味がないということを示唆している。同時に、信念や期待が現実と乖離していると、助かるチャンスをみすみす逃してしまうという皮肉も込められている。
このジョークは、現実社会にも多くの例えを提供する。たとえば、問題解決の方法を提示されてもそれを拒否し、自分の理想的な解決策だけを待ち続ける人々。また、現代の便利なテクノロジーやサービスが目の前にあっても、それを「自分らしくない」として使おうとしない人々。そうした態度がいかに非効率的で危険なものか、この寓話はユーモアを通じて警鐘を鳴らしているのだ。
さて、この話を聞いてあなたはどう感じただろうか?次に何かが「差し出された」とき、それが実は自分を助けるための「ボート」や「ヘリコプター」かもしれないことを、少しだけ考えてみるのもいいかもしれない。