「赤門に呑まれて。」 【東大英語】

  • 以下の文章はフィクションです

英語の試験が始まった。 東大英語。 1のBが終わらない。 一刻一刻と試験時間が過ぎる。

蛍光灯の冷たい光が俺の手元を照らす。 答案用紙の白さが目に痛い。 1のB。 英文要約。 違う。 文法の間違い探しだったか。 思考が定まらない。 目の前の活字が踊っている。 筆者の主張が掴めない。 単語はわかる。 構文も理解できる。 だがその全てが組み合わさった瞬間意味の焦点がぼやける。 焦りが脳を麻痺させる。

カチリ。 壁の時計の秒針が動く音。 その無機質な音が俺の未来を削り取っていく音に聞こえた。 周囲の音だけが異常に鮮明だ。 隣の席の男がページをめくる乾いた音。 前の席の女の鉛筆がリズミカルに走る音。 カリカリカリ。 まるで俺の神経を直接引っ掻く音だ。 なぜ俺だけが止まっている。 なぜだ。

1のB。 たかが数点の問題。 だがここで躓けば全てが崩れる。 時間配分。 予備校の講師が耳にタコができるほど繰り返した言葉。 「大問一つに時間をかけすぎるな」 「全体で点を拾え」 分かっている。 分かっているが指が動かない。 この英文の迷宮から抜け出せない。 筆者は文化の相対性を語っているのか。 それともグローバリズムの功罪か。 どちらとも読める。 どちらでもないのかもしれない。

汗が滲む。 手のひらが湿り鉛筆が滑る。 答案用紙に汗が一滴落ちた。 小さなシミがゆっくりと広がっていく。 俺の絶望のように。 あと何分だ。 時計を見たくない。 見れば現実が容赦なく襲いかかってくる。 だが確認しなければ。 顔を上げる。 針は非情な角度を示していた。 試験開始からすでに三十分。 まだ1のB。 嘘だろ。

この三年間。 俺は何をしてきた。 朝六時に起き夜中の二時まで机に向かった。 夏休みも冬休みもなかった。 友達の誘いを全て断った。 積み上げた参考書の高さは俺の背丈をとうに超えている。 あの全てが今この瞬間に試されている。 そして俺は無様に失敗しつつある。

息が詰まる。 呼吸が浅い。 酸素が脳に回らない。 試験官がゆっくりと教室内を巡回している。 革靴の音。 コツコツ。 その音が近づいてくる。 俺の前で止まるな。 通り過ぎてくれ。 試験官は俺を覗き込むようにして通り過ぎた。 その視線に同情か軽蔑か。 やめろ。 俺をそんな目で見るな。

もうだめだ。 1のBは捨てる。 次の問題へ行こう。 大問2の自由英作文か。 いや3のリスニングがもうすぐ始まる。 その前に長文を一つでも。 ページを乱暴にめくる。 大問4の長文読解。 知らない単語が並ぶ。 頭に入ってこない。 さっきの1のBの残像が思考にこびりついている。 あの英文の呪縛。 「お前には解けない」 そう囁きかけてくる。

「リスニングの準備をしてください」 試験官の冷たい声。 スピーカーから流れる音声ガイダンス。 もう後戻りはできない。 ヘッドフォンを装着する。 自分の心臓の鼓動だけが大きく響く。 ドクドクドク。 頼む。 これだけは。 これだけは聞き取らせてくれ。 流れる無慈悲なネイティブの音声。 速い。 何を言っている。 メモを取る手が震える。 キーワード。 キーワードだけを拾え。 だが思考は1のBに囚われたままだ。

時間が溶けていく。 意識が遠のく。 これが不合格者の見る夢か。 目の前が白くなる。 いや。 ここで終わるわけにはいかない。 俺は何のためにここまで来た。 父の背中。 母の弁当。 俺は一人じゃない。 目を強く閉じた。 そして開いた。 リスニングは終わっていた。 解答欄は空白だらけだ。 絶望。 だがもう涙も出ない。

残りの時間。 あと四十分。 試験官が告げた。 四十分で何ができる。 長文二つ。 自由英作文。 和訳。 不可能だ。 だがやるしかない。 1のBはもうどうでもいい。 リスニングもどうでもいい。 今この瞬間から。 俺は解答欄を埋める機械になる。 思考ではない。 反射だ。 長文の設問を読む。 本文から答えを探す。 見つける。 マークする。 次の設問。 本文。 探す。 マーク。 鉛筆が折れた。 舌打ちしながら予備の鉛筆を握る。 指先が痛い。 汗で答案が歪む。

自由英作文。 テーマは「科学の進歩と倫理」。 知ったことか。 簡単な構文。 知っている単語。 それだけで文章を組み立てる。 文法ミス。 スペルミス。 もう気にしない。 空白よりましだ。 書き殴る。 俺の魂を書き殴る。

残り十分。 和訳。 下線部。 構造が複雑だ。 だがもう迷わない。 直訳だ。 意訳する時間はない。 格好悪くてもいい。 部分点を拾う。 拾って拾って拾いまくれ。

「試験終了。鉛筆を置いてください」 非情な声が響き渡った。 俺の鉛筆はまだ動いていた。 試験官に手を掴まれる。 その時俺は完全に終わったことを知った。

解答欄は全て埋めた。 だがそのどれ一つ自信のあるものはない。 汗と焦りと絶望で塗り固めた答案。 これが俺の三年間か。 椅子から立ち上がれない。 周囲の受験生たちが安堵したような疲弊したような顔でぞろぞろと出ていく。 彼らの背中が勝者のそれに見えた。

俺は最後の一人になった。 重い足を引きずり教室を出る。 二月の冷たい風が火照った顔を叩いた。 痛いほど冷たい。 だがそれが現実だった。 俺は負けたのだ。 東大の赤門が巨大な怪物の口のように見えた。 俺はそれに飲み込まれた。 1のB。 あのたった一つの問題が俺の全てを奪っていった。 空は憎らしいほど青かった。

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